言及記事への言及

■[言論]受け手の便宜とリンク行為 15:27 - 妄想日記



前半は文献からの引用。後半は自分の意見や、私の記事への突っ込み。
一見すると引用部分とうまく溶け合わせて一つの流れをつくっているようにも見える。
しかし実は、引用部分とリンクの関係については、筆者の主観によって関係づけられているに過ぎない。


ここで筆者は「資する」なる、普段見慣れない言葉をよく使っている。
そして、それを義務に等しいくらいの必須条項であるかのように挙げていて、この方いつもの「リンクは言論の自由に必須で、リンクされることについては黙ってろや」的な話に帰結する。


「資する」なる言葉のニュアンスがよくわからないので、取りあえず辞書通りに「助けとなる」「役立つ」と解釈すると、、
なるほど、せっかく書いた言論を広めて多くの人に見てもらう、という意味では役立つだろう。
しかし、必須であるとまで言われれば甚だ疑問である。



リンクは単に、言及する者とされる者の二者だけの問題ではない。
「読者に便宜をはかる」と言うように、不特定の人を呼び込むものである。
それは時に数の力を生み、多数派ではない意見をひねり潰したり、ターゲットとされた人の言論の自由を奪ったりもする。
こうして言論の多様性を損なわれることは、「言論の自由」においては大きなマイナスだ。
このようなマイナスが生じてでも外せないほどにリンクが必須だ、と言われると、到底承服できない。


そういった「潰し行為」の問題とは切り離して考えろ!とおっしゃる人もいるが、リンクの問題を考えるということは、このような問題を考えることである。


追記(2007/12/02):
■[言論]言論の自由の役割 15:10

「不適切な意見が多くの批判を受けることによって淘汰されてしまう」ことによって言論の多様性が失われることはよくないと考えるなら、それはトンデモとしか言いようがない。

不適切かどうかの判断がそれぞれの読者に委ねられる以上、消されてしまうのはよろしくない。


・その消された意見を見られなかった人は不適切かどうかの判断ができない。それでは推測で意見を展開せざるを得なくなる。
・特定の意見が言論の場から消されれば、その意見は進展しない。また同じような意見が吹き出したときに発展のない繰り返しを行うことになる。


これらが言論の自由にとってプラスになるとは到底思えないのだが、、
地動説はガリレオと共に消え去っていれば良かったのか?

人々が自由に意見を交換しあい(すなわち主張と反論を繰り返し)、各々の言論の妥当性を追及するというのは望ましいことであり、それを実現するのが言論の自由の役割である。

それ、リンクにこだわらなくても可能だし。


追記(2007/12/12):

もし自由な言論の場において、妥当性に欠けると判断された言論の著者が、自らその言論を消してしまったとしたら、それは非常に残念なことである

罵詈雑言や数の力などの一切の暴力的な行いがなく、本当に自分から消してしまったとしたら、それは非常に残念なことである。
実際にあることは、暴力によって消されることなので、残念という言葉で済ませてはならない。
ガリレオの時代にヨーロッパ中の教会が動いて、ヨーロッパから地動説を完全に消し去ろうとするようなもので、それこそ言論の自由に関る問題だ。

だからといって、反論した人間のせいにするのは筋違いである。

本当に言論を行使するためだけに反論する人なら、反論先が消されることに対して自省するなり、暴力を使った他者を批判したりするものだが。。

言論行為をなす者としての自覚があるか否かの違いだろう。

アクセスがどの程度欲しいか、の違いにしか見えんのだけど。。
読者の便宜の名の元に表現をしばって、何が言論の自由なんだか、、

少なくとも、言論の自由(*1)を持ち出して正当化をはかるのは筋違いである。

何の正当化? 無断リンク禁止すること? その悲痛な願いに応えること??

(*1)…一般的な(人権学でいわれる)意味においての言論の自由

この人が文献を引用するときは、まるで関係ないことしか引用してないから、きっと人権学とやらも似たようなものだろう。よくわからんけど。
そもそも人権「学」とやらがまるで一般的ではないし、、


自由な議論と、それ以前の言論と、それを広める行為をかなり混同しているような。


[無断リンク]Pcha00氏の「リンク」はタグで括っているかどうかだからなぁ。
カマって氏がまた何か言っているが、それが妄想日記さんや、記事中の私とのやり取りにどう関係するのだろう?
又、タグで括ってなかったら「リンク」ではないだろうに、まるで私以外はタグで括ってないものを「リンク」と言ってるかのようにほのめかされても頓珍漢なだけ。