異論がゼロじゃないだけでは、、

■[はてな]異論がないところが村ですよ。


ネットのようなオープンの場では、村人ではない人が村で意見することができるので、異論が全くない村と言うのは、少なくともはてなでは生まれにくい。


問題は、異論を唱える者が集まりの中に受け入れられるか、あるいはその集まりの中にいる意義を見出せるかであろう。
それにより、多種多様な考え・正反対の考えが常に入り乱れる集団ができれば、それは村社会と呼ぶべきものではない。


しかし、それは異論がゼロじゃないということではない。
その場に異論があったとしても、異論を排除あるいはスルーし、同じ考えの村人同士があちこちのはてブエントリーで集まっている姿は、まさしく村社会と言えるものだ。
そこには、村人と村人ではない人がいるというだけであって、村社会がないこととは違う。

それが一ヶ所に集まっているから渦中の人の中にはいかにも同調して圧力をかけているように見える場合がある(のだろう)

同じ考えしかないのに一ヶ所に集まってdisりコメしようという時点で「つるんでる」としか見えないんだけど、、
私など、同じような意見が


実際、「同調して圧力をかけているように見える」現象に乗っかって劣化コピー悪口を垂れている者もいるように見える。
一体その中の何人が、一人でも同じように悪口垂れることができるだろうか?
(まぁ、できる者はできる者で、何人かの村社会をつくるのであるが、、)


主旨:
異論が少々あっても村社会はできる


追記(2008/02/07):
この人もムラビトであるのが面白い
私もムラビトであるそうだが、一体私はどこの村に受け入れられている何村民なのだろうか??


「異論を排除あるいはスルーし、同じ考えの村人同士があちこちのはてブエントリーで集まっている姿」がどこにあるのかさっぱり分からん。
そういう話は人様の意見をなぞるだけだから一々手前の手柄のように挙げたりしないだけ。


追記(2008/02/11):
異論かどうかという切り分け自体がおかしい。
その辺はこちらの書き込み不足。
異論か否かの切り分けではなく、一つの意見に「んだんだ」言ってる人たちで一つの村になる。
その村の柱となる意見がdisり意見だったときに、はてな村批判になるのではなかろうか。


故に、
ここのブコメにて異論を書いているヤツらこそが結託した村人だ!
とは言ってないし言いません。
誰かさんによく媚びようとしているこの人は村人体質だと思うけど。


「kanose村」「ekken村」「Marco村」「hashigotan村」等。
こういう表現がわかりやすいと思うのは私だけ?